目次
- 1. 使う人の感覚から、パフォーマンスを考える
- 2. 摩擦の科学「トライボロジー」と表面の微細な地形
- 3. プレイヤーのための「摩擦」の指標づくり
- 4. 摩擦を正確に測るということの難しさ
- 5. 研究成果の結晶:VA-005とCR-005の設計思想
- 6. なぜ、力をかけると滑りが変わるのか? 加重動摩擦の秘密
1.使う人の感覚から、パフォーマンスを考える
自分にぴったりのマウスパッドを選ぶのは、最高のパフォーマンスを発揮する靴や服を選ぶのに似ています。マウスの持ち方、手にかける圧力、動かす速さなど、一人ひとりのスタイルが違うからこそ、「これだ!」と感じる表面も人それぞれ。特に、コンマ1秒を争うような高いレベルのプレイでは、「誰にでも合う」万能なマウスパッドは存在しないのです。
この「一人ひとり違う」という事実こそ、私たちWALLHACKがガラス製マウスパッドの技術研究に乗り出した原点です。
「なぜ、ガラスの表面が違うだけで、こんなにも滑り心地が変わるのだろう?」
この素朴な疑問を科学的に解き明かせば、プレイヤー一人ひとりの好みに寄り添った、全く新しい表面を設計できるはず。そう考えた私たちは、トライボロジー(Tribology)と表面マイクロトポグラフィー(Surface Microtopography)という、少し聞き慣れない科学の扉を叩きました。
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トライボロジーとは、摩擦や摩耗、潤滑といった「滑り」に関する現象を研究する学問です。
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マイクロトポグラフィーは、物の表面にある、目には見えない微細な凹凸や形状を扱う学問です。
これらの科学の力を借りて、スピード重視の滑りから、ピタッと止まるコントロール重視の滑りまで、あらゆる操作感を生み出すための技術的な土台を築く。それが私たちのミッションです。
2.摩擦の科学「トライボロジー」と表面の微細な地形
まず私たちが取り組んだのは、マウスパッド表面の「素顔」を明らかにすることでした。高解像度のレーザースキャンや光学顕微鏡を使って表面を拡大していくと、肉眼ではツルツルに見えるガラス表面が、実はまったく違う姿をしていることがわかります。
図1を見てください。そこには、まるで山脈のように、無数の山、谷、そして複雑な模様が広がっています。これが、マイクロメートル(1mmの1000分の1)単位で見たマイクロトポグラフィー(表面の微細な地形)の世界です。

この微細な地形こそが、摩擦と滑り心地を決定づける「主役」です。地形の形が違えば、マウスソールとガラスが実際に触れ合う面積や接触の仕方が変わり、そこで働く摩擦のメカニズムそのものが変化します。これが、滑り心地が表面ごとに全く異なる根本的な理由なのです。
3.プレイヤーのための「摩擦」の指標づくり
ここでは、マウスパッドの滑り心地を決める「摩擦」の正体について、科学の視点から見ていきましょう。
トライボロジーの世界では、摩擦を「物体が動くのを妨げる抵抗力」と定義し、シンプルな数式で表します。
F = μ x N
難しく聞こえるかもしれませんが、内容はとてもシンプルです。
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F は「摩擦力」、つまり滑りにくさの正体です。
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N は「垂直抗力」で、マウス本体と、それを抑える手の重さによってパッドを押しつける際のパッドから押し返される力のこと。地面が私たちの体を支えてくれる力と同じようなものです。
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μ は「摩擦係数」で、その表面がどれだけ滑りにくいかを示す数値です。
この式が示すのは、「マウスを強く押さえつけるほど(Nが増えるほど)、摩擦力も大きくなる(Fが増える)」という、直感的な関係です。
プレイヤーにとって最も重要なのは、この摩擦係数μです。この数値が、特定のパッドとソールの組み合わせで「どれくらい滑るか」を客観的に示してくれます。
この摩擦係数には、プレイヤーの感覚に直結する、主に2つの種類があります。
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静止摩擦係数 (μS):止まっているマウスを「せーの」で動かし始める瞬間の抵抗。これが「動き出しの重さ」を決めます。敵にパッと照準を合わせる、最初のひと動きの感覚です。
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動摩擦係数 (μK):マウスが滑っている最中の抵抗。これが「滑走中の抵抗感」を決めます。敵を追い続けるトラッキング操作の滑らかさに関わります。
そして、WALLHACKはプレイヤーのリアルな操作を分析し、独自の3つ目の指標を導入しました。
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加重動摩擦 (μK-W):マウスをグッと強く押さえつけた時(例えば、高速で動かしたマウスをピタッと止めたい瞬間)の動摩擦。いわば「急ブレーキの効き具合」を示す指標です。
この3つの指標(動き出し、滑走中、急ブレーキ)を分析することで、マウスパッドが持つ複雑な滑りの個性を、初めて正確に語ることができるのです。

4.摩擦を正確に測るということの難しさ
さて、表面の地形が摩擦を決めることはわかりましたが、その摩擦を「正確に測定する」ことは、想像以上に困難な挑戦でした。
それはまるで、繊細な料理のレシピのようです。同じ材料を使っても、ほんの少し火加減や混ぜ方、調理時間が違うだけで、全く違う味になってしまいます。摩擦測定も同じで、以下のような無数の要因が結果を左右してしまうのです。
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表面の質感:テスト対象のガラス表面の仕上げ
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ソールの素材:マウスソールの材質や表面の状態
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滑走速度:テスト中にマウスを動かす速さ
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ソールの数と配置:マウス底面のソールの数やレイアウト
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ソールの摩耗度:新品か、使い込まれているか
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移動距離と経路:直線の動きか、円を描く動きか
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環境:温度や湿度
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垂直荷重:マウスにかける圧力
これら全ての変数を完璧に管理しなければ、信頼できるデータは得られません。例えば、少し使い込んだソールと新品のソールでは、まるで別の製品かのように摩擦の値が変わってしまうのです。
既存の摩擦試験機は、私たちの目的には合いませんでした。その多くはプラスチックフィルムなどを測るためのもので、ガラス製マウスパッドとマウスソールという特殊な組み合わせを精密に測定するには、能力不足だったのです。
「市販の定規では0.1mmを正確に測れない。ならば、自分たちで専用の精密測定器を作るしかない」
この決意のもと、私たちはWALLHACK独自の摩擦試験機と測定手法を自社開発しました。これにより、005シリーズの開発を通じて、一貫性のある信頼性の高いデータを取得し続けることができたのです。

5.研究成果の結晶:VA-005とCR-005の設計思想
長年にわたる科学的な探求は、ついに果実を結びました。それが、明確な設計思想を持つ2つの新しい表面、VA-005とCR-005です。
この2つの表面は、微細な地形の作り方が全く異なり、まるでスピードスケートのブレードと、陸上スパイクの裏面のような、対照的な滑走感を提供します。
VA-005は、「滑らかさ」を追求したスピードモデルです。
その表面は、無数のピラミッド状の微細構造で覆われています。この設計は、2つの仕組みで摩擦を最小限に抑えます。
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凝着摩擦の低減:ソールとの接触点を減らすことで、分子同士が引き合う力(物がペタッとくっつこうとする力)を弱めます。
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プラウイングの抑制:ピラミッドの先端が鋭くないため、硬い突起が柔らかいソールを「削りながら」進むことで生まれる抵抗(プラウイング摩擦)が発生しにくくなっています。
結果として、抵抗感が少なく、どこまでも滑っていくようなスピーディーな操作感を実現しました。

CR-005は、「止める」を極めたコントロールモデルです。
その表面は、小さなクレーターのような窪みが密集した、ユニークな地形をしています。この設計は、一見矛盾する2つの特性を両立させます。
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スムーズな滑り:窪みによって実質的な接触面積は少なく、滑走感はスムーズです。
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強力な制動力:しかし、各クレーターの「縁」が鋭い突起として機能し、ソールに食い込みます。これによりプラウイング摩擦が意図的に増大され、強力な静止摩擦(止めやすさ)と動摩擦(コントロールしやすさ)を生み出します。
さらに、このCR-005の真価は、圧力をかけた時に発揮されます。その秘密が、次の「加重動摩擦」です。

6.なぜ、力をかけると滑りが変わるのか? 加重動摩擦の秘密
「力をかければ摩擦が増えるのは当たり前」――確かに、物理の基本法則はそうです。しかし、その「増え方」が常に一定だとは限りません。
この現象は、新雪の上を歩くのに似ています。軽く歩けば足はあまり沈みませんが、グッと体重をかけるとズブッと深く沈み込み、急に歩きにくくなりますよね。マウスパッドの上でも、これと似たことがミクロの世界で起きているのです。
シナリオ1:軽い力で滑らせる(CR-005)
通常操作時の軽い力では、ソールはCR-005表面の突起の上に「乗っている」状態で、滑らかに動きます。このとき摩擦の主役は、表面がペタッとくっつく「凝着摩擦」です。
シナリオ2:強く押さえつけて止める(CR-005)
マウスを止めようとグッと力を入れると、柔らかいソールに硬いガラスの突起が深く食い込みます。まるで雪に足が沈むように。すると、摩擦の主役が交代します。今度は、突起がソールを削る「プラウイング摩擦」が支配的になり、抵抗力が爆発的に増加するのです。

つまり、CR-005のような表面では、かける力に応じて摩擦係数(μ)そのものが変化するのです。
これがプレイヤーの感覚に何をもたらすか?
それは、「意のままに発動できる、強力なブレーキ」です。高速でマウスを振った後、止めたい瞬間に少し力を込めるだけで、まるで吸い付くように「ピタッ」と止まる。この、プレイヤーの意志にダイレクトに反応するストッピングパワーこそが、精密なエイムを可能にする最大の武器なのです。